Violin弾きのお美っちゃん~43

箱の中味は……


左下の奥歯を抜いた。痛み止めと抗生物質の薬は大いに助けになったが、数日間は、海の底に沈んでしまったような気持ちがした。

薬で痛みが和らぐと、「麻薬とはこうゆうものかしら」と、神経の芯が鈍くなっている別の自分を感じた。もちろん薬は処方された痛み止めであって麻薬ではないのだが、「本当の私はまだ目を覚ましていない」ことを意識した。

「ああ、こんなに辛いものならいっそのこと…」と、まだ若くて元気なうちに、抜かなくてもいい奥歯も抜いてしまいたくなった。

……昔、今よりもずっと若い頃……眠っている時に見る「怖い夢」が2つあった。ひとつめは歯が抜ける夢。ふたつめは、ヴァイオリン演奏試験や演奏会の前に見る夢だった。弾こうとすると突然ヴァイオリンがばらばらに空中分解した。

嬉しい夢を見ている時は、寝入っているのに微笑んでいるのがわかる。だが、夢は虹の橋のようにスーッと消えてしまう。残念だ。怖い夢は見ている時間が長く感じる上、何度も見る。目を覚ますと眉間にしわが寄っていることもあるので、なおさら恐ろしい。

昔話の浦島太郎が竜宮城で暮らしたのはどのくらいの期間だったのかわからないが、別世界の魅惑に取りつかれた太郎は、長い夢から目覚めなかったのだろう。「助けた亀」に連れられて行ったのは、ハワイだったと言う人がいたが、私はそう思わない。

太郎は故郷の浜に着くと、乙姫様からもらった玉手箱を開けてしまった。そして容赦のない結末になっている。そこに戒めがあるにしても物語の最後のページが「白髪頭と歯抜けのおじいさん」では落胆させられる。太郎さんがあまりに気の毒過ぎる。

私も10数年前、カンザスに住む友人のジーナに小箱をもらった。それは手の平に握れるくらいの大きさで、何も入っていないように軽かった。箱はかわいい包装紙で包まれ、リボンもかけられていた。

ジーナは、「ミチコ、これは特別のプレゼントよ。でも決して開けてはダメよ」と言って私の手の平に乗せた。私は「開けない」と自信のない約束をした。

そして私は約束通り一度もリボンを解いていない。何度かリボンに手をかけたがやめた。小箱を開けないのは浦島物語の戒めを守っているからではなく、私が誠実だからでもなく、小箱を信仰しているからでもない。

「あなたが悲しい時に私が祈っていると思ってね」と言ったジーナの言葉を、今でも心のどこかで大切にしているからだと思う。もしかして、空っぽかもしれないその箱のことをジーナが忘れていたとしても、あるいは、私がその箱を失えたとしても、その値打ちは変わらないだろう。

私はハワイで、台湾や香港出身の中国系の人たちとも知り合い、友だちになった。まだ行ったことのない彼らのお国話を聞いていると、特に40代、50代の人は台湾出身のある女性歌手をとても大切に思っていることを知った。まさに心の中で命になっているようである。

テレサ・テンという歌手は日本でも活躍し、その人気は大変なものだった。が、不幸なことに10年程前、タイのホテルで病気で亡くなった。まだ40歳ちょっとの若さだった。

台湾出身の知り合いのリュウさんは、「僕は台湾にいた頃、毎晩ベッドに入って寝入るまでテレサの歌を聴いていたんだよ」と目を輝かせて言った。

ある日、彼はCDを聴きながらやって来た。「聴いて!」と言うのでヘッドフォンを耳に当てると、日本語で歌うテレサ・テンの甘く澄んだ歌声が流れてきた。「僕は今ではテレサの歌を日本語でも聴いているんだよ」と、リュウさんは幸福感に満ちた表情をした。

私は以前、気管支のアレルギーみたいな症状でお医者さんに行った時、「テレサ・テンはこれで死にましたよ!」と言われたことがあった。それは冗談好きな友人医師の脅しだと受け止めていたが、テレサ・テンの熱心なファンから話を聞いているうちに、「もしかしてあれは本気だったのかもしれない」と思うようになった。

深海に沈められていくような苦しさに眉間にしわを寄せたテレサの顔と、多くの中国人や日本人に愛されたテレサの顔が浮かぶ。そしていつの間にか私は、ハワイで出会った台湾や香港の人たちとも「同じ長屋の住人」になったような親しみを覚えている。

「アラモアナの海の35メートル下には、日本の古いマグロ船がひっくり返して沈められているんだよ」とヨットのキャプテン、イアンが教えてくれた。亀や蛸や魚たちはこの船を家にして、そこから出たり入ったりして安全に暮らしているそうだ。

日本の「長屋」は、ホノルルの海の中にもあったのだ!。

そこで私は、浦島物語を「竜宮城」から「長屋」へ、「乙姫様の玉手箱」から「ジーナの小箱」へと、心の中で書きえておくことにした。

太郎は誰なのか。それは、誰にも言えない。

(毎日新聞USA連載)



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