Violin弾きのお美っちゃん~35

声はすれども……

私は機械に弱いと思い込んでいた。使う以前から心理的な拒絶があるものだから、機械の方も素直に動いてくれない。これまでに、車、ファクス、コピー機、コンピューター…と格闘してきた。

電話では見えない格闘もあった。電話の具合が悪くて電話会社に電話をした時のこと。「原因がわからないけれど故障しています」と言うと、「わかりました。少々お待ち下さい。係りの者に繋げます」と、落ちついた声が聞こえた。

始めは安心した。が、「係りの者に繋げます」という台詞は部署から部署へ回され、延々と繰り返されたのだった。一見プロフェッショナルに聞こえた声は、だんだん空しく伝わってきた。その言葉は行き着く先がないように思えて、不安になった。

誰もが責任を取ることのない円をぐるぐる回っているようだった。私の首筋には汗が流れた。そんなことがあってからは、「故障係り」に難なく直接たどり着けるようになった。

ファクスやコンピューターも修理に出した。修理屋さんは、「このお客は機械のことがわかっていないから騙してやろう」などと思っていないことは感じられた。

「何とかして直そう」と修理屋さんは頑張る。だが悲しいことに修理屋さんの技術が足りない。技術がないというのはアメリカの技術の問題ではない。

責任をもってきちんと仕事の出来る人に交じって、責任を取ることのない円をぐるぐるしている、「修理の出来ない修理屋さん」が存在するということだった。

「頑張ったけど直せないんだ」という台詞を聞いて、私は何度も「あっ」と驚いた。「とにかく直してもらわなくては困る」と、機械に弱い私は頑張る。結果は、直ることもあったし、無理だったこともある。

ハワイにはハワイのペースとサイクルがある。能力の足りなさを単純にマイナスとして捉えられない不思議さもある。世界の人々に愛される「ハワイの雰囲気」を作っているのは、「やり手」や「出来る人」ばかりではない。

「雰囲気」とは、合理的な計算では計れない、特殊な価値を持っているものだから。

日本でもそうであるように、アメリカでも宣伝の電話はよくかかってくる。それは顧客に電話をするのではなく、長距離電話会社の売り込みだったり、コピー機のセールスだったりする。

まだ英語での応答に慣れていなかった頃は、その電話が重要なものかそうでないのかすぐに判断出来ず、しばらく相手のしゃべるままに聞いていた。そして、頃合をみて「興味ありません」と、電話を切った。

今では、宣伝の電話だとわかると「要りません」と、すぐに断わる。それでもしつこいと、嘘ではなく「ごめんなさい、今ミーティング中なの」と言う。すると「あっ、そう」と、あっさり電話を切ってくれる。引き際がいい。

たまに、寄付を求める電話がかかる。警察署からも。

「もしもし、警察ですが…」
「ナニ? 警察? 何ですかっ?」
「いやいや、あなたが何かの事件に巻き込まれたのではありません。ご心配なく、ミセス・ナカムラ…」と、電話の声は丁寧。

「空港でテロリストを嗅ぎ分ける犬を購入するのに寄付をしてくれませんか?」
「ごめんなさい、予算がないの。でも私の犬もお役に立てればお手伝いしますよ」
「何の種類?」
「シーズー犬よ。とても利口でかわいいんです」

「それは役に立たないですねえ。特殊なトレーニングを受けた特別の犬が必要なんです。これは皆さんをテロの危険から守るためのものです。ミセス・ナカムラ、是非ご寄付を!」

私はまたしても嘘ではなく、「ごめんなさい。予定外の経費はないのよ。でも、他の方法でお役に立てるのでしたら喜んでします。私共のウェブサイトも見て下さいね」と、ついでにこちらの宣伝もした。

すると電話の向こう側から、その姿が見えそうなくらい残念そうな声が聞こえてきた。

「オー、ミセス・ナカムラ……あなたを守るためなんです。75ドルだけでもいいんです」と、慈善は偽善に響いた。顔が見えなくてよかった。

機械は、ほどほどに便利で、誰もがコントロールできる程度に簡単な方が、ちょうどよい。

(毎日新聞USA連載)

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