Violin弾きのお美っちゃん~33

先のことは……

最近、レーザーでの目の治療が盛んに行なわれている。レーザーによる、目や美容を目的とした治療の為にハワイを訪れる日本人は多い。

メガネも昔に比べると随分と軽くなり、コンタクトレンズも安全で便利になった。私が16年前にハワイに来た当初、ハワイの人たちは大きなメガネをかけていた。よく見るとレンズ(ガラス製)も厚ぼったく、メガネの重みで鼻に当たる部分がへこんでいる人もいた。

「どうしてそんなに分厚いレンズなの?」と友人に尋ねると、「レンズが割れて顔にけがをすると訴訟になるからなのよ」と答えた。同時代、日本ではすでに相当薄く軽い安全なレンズとフレームがあったので、不思議に感じたのを思い出す。

その頃私は、ちん丸い顔にちん丸いメガネをかけていた。顔に負担が少なくてよかったのだが、一度だけ影響されて大きなメガネを作った。だが、常夏の国での、顔を覆うような大きなフレームは暑苦しかった。メガネの重みで私の鼻もへこんだ。

汗をかくとメガネはずり落ちてくる。重いとさらに加速される。その加速状態が、「ここ一番」という大切な時に起こったりするものだ。

以前、大学時代の先輩からこんな話を聞いた。彼女はオーケストラのヴァイオリン奏者だった。ある演奏会での本番中、メガネが鼻先にずり落ちてきた。それでも演奏を中断しないで細かい音符を追っていかねばならない。同時に、指揮者の鋭い目つきや指揮棒もチラチラ見なくてはならない。

しかし非情にも、メガネは汗と音楽に乗ってずるずると鼻先まで滑り落ちていく。ヴァイオリンは弓を上げたり下げたりして弾く。そこで彼女は上げ弓の時、つまり、弓の先から元に来た瞬間に、右手のひとさし指でメガネを押し上げてヴァイオリンを弾き続けた。恐らく何十回と繰り返したことだろう。人ごとではない切実な話だった。

私は高校時代から近眼になりメガネをかけ始めた。大学時代からはコンタクトレンズもするようになった。それから何年か経って、目が乾燥してごろごろするようになったので眼科に行った。すると、「今すぐコンタクトレンズを捨てなさい。目の皮がむけますよ」と恐ろしいことを言われ、その場で捨てた。

それからずっとメガネをかけ続けてきた。もうコンタクトレンズをすることはないだろう」と思っていたが、2年前にメガネのつるが当たる耳の部分にひどい炎症を起こした。私は主治医のところに走り、「耳が切れたんです」と言った。

医師は診察後、「コンタクトがいいんですけどねえ」と、ぼそっと言った。この医師は時々何かをぼそっとつぶやく。それは、はっきりとコンタクトレンズを薦めたのではなかったが、私は聞きのがさなかった。「そうだ、コンタクトレンズにしよう」と、心の中でつぶやいた。

私が行った眼科はメガネ屋さんといっしょになっていた。店の奥には小さな検査室がいくつもあり、ひとつの検査ごとに部屋を移動させられた。スタッフが検査をしている間、女性の眼科医は暇そうにぶらぶらしているように見えた。そしてひと通りの検査を終えると、彼女は勢いよく診察室に飛び込んできた。

それはまさに、舞台の袖からチューニングを終えたオーケストラが並ぶ舞台に踊り出て、指揮台に跳び乗ったようだった。オーケストラの楽員と観客の視線に押し潰されまいと気合を入れている。それから眼科医は冷たい機械を相手に、私という観客に向かってパフォーマンスをした。

ついに私はコンタクトレンズを目に入れた。眼科医は「片方は遠く、もう片方は近くが見えるように処方しました」と甲高い声で説明した。それがどうゆうことなのか理解出来なかったが、この際どうでもよかった。とにかくよく見えたのだから。

確かによく見える。なるほど両眼で見ると50センチ先の譜面台の楽譜も、遠くのダイヤモンドヘッドもよく見えた。何よりも顔が涼しい。ついにメガネの煩わしさから解放されたのだ!。それに、奇麗になったと言ってくれる人もいて嬉しかった。

が、何もかもよく見えるはずなのに、ひとつだけ見えないものがある。手元の細かい字がよく見えない。辞書を調べたり、紙の文章を読みながらコンピューターの画面を見るのは困難だった。コンピューターを使う時間が増えるにつれてもどかしさはつのっていった。

ついに我慢の糸は切れ、コンタクトレンズをつまみ出した。そしてまたメガネに逆戻りした。最近ではコンタクトレンズはごくたまにしかしない。

「レーザーで治療すればよく見えるようになるのよ」と、声高に親切に言ってくれる人もいるが、まだその気にならない。いつか誰かが、「レーザーがいいんですがねえ」とぼそっとつぶやくのを聞いて、心を動かされるかもしれない。が、今は、先のことは、見えない。

(毎日新聞USA連載)


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