この島のどこかで……
友人のヴァイオリンが盗まれた。なくてはならない、かけがえのない、大切なものが盗まれたのだ!
イオラニとは、私がハワイに来てからすぐに親しくなったので、もう10数年のおつきあいになる。彼女は出身校でもあるハワイアンの伝統的な学校でオーケストラを教えている。私たちはいっしょに音楽をしたり、ヨーグルトショップでおしゃべりをしたりして愉快な時間を過ごしてきた。
泥棒は、持ち主の魂がヴァイオリンにどれほど込められているか、などと考えることはないだろう。楽器の値打ちもわからないだろう。どこかで売り飛ばしていくらかの現金をつくることしか考えていないだろう。「ヴァイオリンを弾きたい衝動にかられて盗んだのだ」とも言わないだろう。
コソドロは私たちにとって最悪のタイミングを狙っている。それは背筋のゾッとすることなのだが……。「油断」を狙う悪魔のようなものだ。コソドロという悪魔は普通の日に普通の身なりをしてやってくる。決して覆面などはしていない。
ある日、ある時、私のオフィスにコソドロが入った。その時間、いつもいっしょにいる愛犬ドルチェが気晴しに外を見たいと催促したので、ドアを開けて低いフェンスを置いていた。ドルチェは鼻をフェンスにくっつけて廊下を通る人々を眺めていた。
「泥棒さんどうぞお入り下さい」とでも言っているような風情がいけなかった!!。入口に近い部屋から誰もいなくなっていた、ほんの数分間での出来事だった。
見知らぬ男がオフィスに入ってドルチェを捕まえようとしていた。ドルチェはワンともニャンとも言えず、すばしっこく逃げ回っていた。男は「犬があんまりキュートだったから」とニヤニヤごまかし笑いをしながら、身を翻し、走り去った。
人を疑ってはいけないが、私のバッグからはサイフが抜き取られていた!
私が911に電話をすると体格のいいおまわりさんが2人すっ飛んで来た。出動が早いのには感心したが……。私はきっちりレポートしたものの「現金は戻って来ない」とおまわりさんは内心決めつけているふうに見えた。私はいらいらした。もっと使命感を燃やしてもらわなくては困る!
そこで2人のおまわりさんの目を見据えて「あのグリーンのお財布は私のお気に入りだったのよ!このバッグとお揃いで買ったのに……」と未練がましい響きで付け加えておいた。
「そうか、よしわかった!これからこのあたりを捜索する!」「犯人はお金を抜き取ってそのグリーンの財布をゴミ箱に捨てて逃走したかもしれないし、この辺の道に投げ捨てているかもしれないし……なあ!」と2人のおまわりさんは顔を見合わせて熱っぽくうなずき合った。
私は落胆した。やはり明らかに「お金は恐らく戻ってこないだろうなあ」と言ってるのと同じことではないか!それからおまわりさんは一仕事終えたことを無線で署に連絡しながら悠々と引き上げて行った。
その大きな後ろ姿に向かって「しっかり探してよッ!」と念を押した。おまわりさんは「わかってるよ」といったふうに手を上げて、廊下の角を曲がって行った。
次の日からビルの人々は「聞いたよ。かわいそうに!」と同情の声をかけてくれた。それから私たちはこれまで以上に安全管理を心がけるようになった。しかし、愛犬が盗まれなかったのは不幸中の幸いだった。
数日後、ホノルル警察から、盗難のレポートはファイルされたという手紙が届いたが、未だ犯人が捕まったという連絡はない。
イオラニのヴァイオリン盗難事件から1カ月経った。クライムストッパーから3度電話があり、それが自分のヴァイオリンかどうかを確かめに行ったが、残念ながら違っていたそうだ。
しかしイオラニは信じている。必らずヴァイオリンが戻ってくることを!このオアフ島の空の下。ヴァイオリンは誰にも奏でられることなく、どこかに隠されているのだろうか。
そのモノは、その人の、あるべきところになくてはならないのに……。
(毎日新聞USA連載)