私は有村立といいます。 1974年2月3日、午前1時頃にこの世に生を受けました。 生誕地は、日本本土最南端の鹿児島県鹿児島市です。 鹿児島は明治維新の時に、多くの革命家を生み出した土地です。 今現在の家族構成は、母親と妹の3人です。 父親は、私が12歳のときに胃癌で死別しました。
生後数ヵ月で、父親の仕事の都合で兵庫県の西宮市へ移り住み、周りがガスタンクやゴミ処理場という、今考えれば空気の悪い、成長発達には好ましくない環境で、4歳までそこで育ちました。 その頃に残っている記憶と言えば、父親が厳しくてよくゲンコツを食らっていたことです。 また両親にくすぐられて、笑ってるものの、あまり長い間やられると、だんだんと苦しくなって、「もうやめて!」 と言いたかったのですが、まだ言葉がでる前で言えなかったと言う記憶があります。 その記憶は、15歳くらいまで自分の夢に出てくるほど、ある意味トラウマになっていました。しかし、今はそういうトラウマはありません。
5 歳になるととなりの宝塚市へ引越しました。 宝塚は女性だけで演じられる宝塚歌劇でも有名です。 そこで宝塚市立の野上(のがみ) 幼稚園に2年間通いました。 幼稚園時代の思い出と言えば、卒園式のときに、先生と離れるのが嫌だったということです。 子供ながらに少し恋心があったのかも知れません。
小学生になると、このころから身長が高くなりはじめ、またおっとりした正確からか、嫌がらせやいじめを受けることもありました。 しかし、いじめをしている子はいつかかならず罰を受ける日がくるんだということを思いながら、あまり相手にしていなかったので、学校にいくのが嫌になったということはありませんでした。
小学校最後の6年生になると、今までの平穏さが嘘のような、大きな経験をいくつもすることになりました。
1 つ目は、クラス内でちょっとした相撲ブームになり、以前から砂場で相撲をとっていたこともあって、「親方」 としてクラスの人気者になった時期がありました。 どちらかというと大人しくてあまり目立っていたことがなかったので、その時は、正直なんとも気持ちいいものだなあと思っていました。
2 つ目は、その相撲をとっていた時のこと、倒れたときに肘あたりを強打し、肘関節を脱臼したのです。 今から思えばこのときに初めてリハビリテーションというものを体験しました。 理学療法士の先生と、筋肉が固くなって伸展が60度くらいまでしかできなかったのが、温熱療法やマッサージで徐々に元に戻っていくのをまのあたりにして感動しました。
3つ目は、足の骨折でした。 ボーイスカウトでのキャンプ活動中のことで、複雑骨折はしなかったものの、1ヵ月ギプスと松葉杖を経験しました。
そして4つ目は、父親の死でした。 6年生の4月頃から体調の不調を訴え始め、5月に入院、37歳の若さも手伝ってか、進行が早く、1985年8月15日に他界しました。 このころの日本の医療は、患者に告知をするという習慣が全くなかったため、母親もはじめは本人に言わなかったそうです。 しかし、本人もこれはおかしいぞと思い始め、父親の方から本当のことを言ってくれと言われて母親が告白したのだそうです。 この頃にちょうど私は骨折をしていたので、母親には本当にいろいろ苦労をかけたなと感謝しています。 本当にいろいろなことが嵐のように過ぎ去った翌年の3月、小学校を卒業しました。 (2002年 8月 9日 金曜日 0:25 AM)
中学校に入ると近くの公園で、ゴムボール&プラスチックバットでする、今考えればかなり幼稚な野球をはじめました。 手軽にでき、変化球も自由自在にかけやすい、この野球 ”ごっこ” がいつのまにか打率や防御率を競うようになり、実に高校2年まで続きました。 中学時代は、このゴムボール野球に青春をかけたといっても過言ではないでしょう。 ちなみに、首位打者とホームラン王を1回づつ獲得しました。 それと、3年生の時のクラスメートはとても団結力が強く、球技大会では、サッカーで優勝するなどとても充実していました。 サッカーでは、体格から (この頃180cmほどありました) ゴールキーパーをやっていました。
また、この頃から鉄道に乗っての旅行を一人でするようになり、自他ともに認める 「鉄道マニア」 になっていました。 今現在の旅行好きも この頃から始まったのでしょう。
家庭内では、母親が37歳にして車の免許をなんとか取得し、私と妹を養うために、亡き父親の勤め先の子会社で働き始めました。 こうして仕事と家事の両方をこなし、私達を育ててくれた母親を私はとても尊敬しています。 本当に頭が上がりません。 本人の目の前では面と向かってなかなか言えないものの (ここが自分のいけないところですが)、立派な言語聴覚士になって、恩返しをしたいと強く決心しています! 「かあさん、ありがとう。心から感謝しています。」 この言葉を、結婚する時までには必ず言おうと思っています。 (2002年 8月 16日 金曜日 7:38 PM)
高校時代は、自分の人生の中で不毛の時代であったかのしれません。 とは言っても、グレたりということではなく、今振り返ってみると、何のために高校生活を送っていたのかがわからないほど、積極的なことを何もしていなかったからです。 父親のいない生活の中で、反抗期を迎えながらも、母親の苦労は分かっているつもりだったので、迷惑だけはかけないようにしようという気持ちだけはありました。
そんな中で、唯一積極的に行っていたのが、鉄道を使った旅行です。 狭いながらも日本のいろいろな街に行って、写真を取ったり、温泉に入ったり、現地の人と仲良くなったり、いろいろなものをみたり、etc. 「子供は一人で旅させろ(でしたっけ?)」 といいますが、この旅を通じて、本当に様々な経験ができ、自分自身にとってプラスになりました。高校終了までで、東北、北海道、沖縄を除く日本の2/3を制覇していました。
学校には行っていたものの、このような生活を送っていて、第二次ベビーブームも重なっていたので、大学にストレートに進学が出来るはずもなく、一年間の浪人生活をすることになりました。 この頃、自分が何になりたいのかが不透明でしたが、生物学と英語が好きだったので、それを中心に勉強を行い、翌年、私立の甲南大学理学部生物学科に合格し、入学することになりました。
大学時代に入って、様々な友人との交流が広がって行く中、野球サークルを立ち上げて、市の野球リーグに参加することになりました。 今まで野球 ”ごっこ” をして遊んでいた者が、晴れて正式な野球デビューを果たすことになりました。 大学の4年間は勉学以外にこの野球と、以前からの旅行、バイトに力を入れることになりました。 特に旅行は自動車という手段が増えたこともあり、Off Load を駆けめぐったり、林道を走破したりと種類が広がりました。 そして大学時代後半には、絶対音感を頼りにパソコンを使った音楽作成 (DTM) を始めたりと、いろいろなことを精力的にやりました。 このように大学時代は、いろいろなことにチャレンジし、経験を積むことができたので充実していました。
一方、バイトと遊びに明け暮れていて、正直勉強をあまりしなかったので、大学時代は典型的な日本人のダメ大学生だったのかのしれません。 この biology で飯を食っていくぞ、という意気込みもあまりありませんでした。 (2002年 8月 9日 金曜日 0:25 AM)
就職の時期になっても、バブル崩壊後の就職超氷河期といわれた中、どうしてもこれという仕事が見つからりませんでした。 その中で、唯一興味があったのが、バイト先のケンタッキーフライドチキンでの仕事でした。 社員の仕事を見ていて、大変ながらも様々な手段を使って売上を伸ばし、店舗を経営して行くと言うマネジメントの仕事をやってみたいという気持になっていました。 bio でない全く畑違いの仕事ではありましたが、KFC Japan のもと、常務取締役が独立して立ち上げた会社の社員として大学卒業後すぐに就職し、フランチャイズのKFCの店舗で働き始めました。
店舗勤務なので働く店舗もいろいろ代わり、いろいろな形態の店舗を経験しました。 その中で他の人に漏れることなく、社会人としての責任の重さを実感し、仕事も徐々に覚えていきました。 日本では特にクリスマスに相当の売上があるので、お客様とのトラブルが発生し、胸ぐらを掴まれたこともありました。 働いている当時はもちろん厳しかったですが、今思えば KFC での社会人経験というものは、後の自分にとってとてもプラスになることばかりでした。 マネジメントの3要素と言われている人、物 (資材・食材)、金の管理だけでなく、店舗のペンキ塗りや植樹の箭定、クリンリネスメンテナンスまであらゆることをしたので、ある意味、自分の自信にもつながっていきました。 (2002年 8月 17日 土曜日 7:49 PM)
本当の意味での 「仕事をする」 ということが段々とわかりはじめてきた、就職3年目のある日のことでした。あるお客様で、言葉の不自由な方がいらっしゃって、手話や身振り、手振りで一生懸命買いたい商品を私達に伝えようとしていました。 私達も何とかそれに応えようと筆談をしたりしながら苦労しつつも、何とか商品をお出しすることができました。 その時に、このお客様のようにコミュニケーションに障害を持っておられる人達に対して、もっと何か役に立てることはないか、と思い始めました。 また当時はちょうど21世紀に移り変わる時期でもあり、就職して3年目という、自分の中では本当にこの仕事で良いのか、と自分に問い直そうと考えていた時期でした。 そしてじっくりと考えた結果、今現在の言語聴覚士の道に進もうと決心しました。
KFCの仕事自体にはやりがいもあり、また、幸いに上司にも恵まれていたので、仕事を辞めて、一から養成校に入り直して転職するかどうかとても迷いました。 しかし、正直なところ超高齢社会を迎えようとしている日本で、お年寄りが増加することが必至な今後を見据えた、KFC Japan の長期的なビジョンについては何一つ示されませんでした。 今後どころか、今現在の戦略や商品開発ですらマンネリ、思考錯誤の真っただ中にある状態で、 KFC Japan の将来性にとても不安がありました。 そういったことも総合的に判断し、転職することを決意しました。 (2002年 8月 19日 月曜日 5:29 PM)
I quit KFC where I worked for three years. I studied for one year and took the entrance exam once again. Then I entered Hiroshima Prefecture – Health Science Department. So, when I look back on my life, I would like to express to my mother appreciation by repaying her back as a dutiful son should do. Also, I have met many wonderful people through work and school life and because of those people I have become the person I am now.