Violin弾きのお美っちゃん~28

70歳になったら……

てくてく…てくてく…てくてく…てくてく、私は歩いていた。

熱を出して寝たり起きたりしていたので、同じ夢を何度も見ていたのだろうか。どこを歩いているのか分からないが、私はひとり手ぶらで、てくてく歩き続けていた。

そこは何もない緩やかな丘のようだった。ある時は長い影法師を道連れに陽の沈む方に向かって歩き、ある時は一面灰色の雲の中を歩いているようでもあった。その道はなだらかなようでも、知らず知らずのうちに次第に険しい道になっていたようだ。

ホノルルの3月の陽光は、もう夏の予感を運んできている。それなのに夢の中で見た自分の姿がまだちらちらと現われては消える。これは他の誰にも見えない「愚かな私」の姿だから、夢の中から飛び出してくるのだろうか。

熱でぼんやり夢を見ているようだった2月のある日、私は49歳の誕生日を迎えていた。

私には「勝手の兄」という兄がいる。「勝手な兄」ではない。実の兄はいないし義理の兄でもない。私が勝手に兄と呼んでいるだけのことだから「勝手に兄などと呼ばないでくれ」と言われれば、その時から兄でないことになる。そこがまたいい。

私の誕生日におめでとうと祝ってくれる?、と、勝手の兄に言った。その返答はもっともらしく聞こえた。「61歳になってから、毎年、幸せを祝おう」と。61歳まであと12年はあるのに「さすが勝手の兄だ!」と頼もしく思い、妙に感心して納得した。

しかし、よくよく考えてみると、物心ついたころからてくてく歩いている私にとって、「61歳」が何を意味するのかわからない。61歳から高齢者で、引退をして頭と体が暇になるの?。年金がもらえるようになるの?。61歳以上は女性だと思わないの?!。

くたびれても命の終わりまでてくてく歩き続けるだろうし、年金はもらうのか、もらえるのか考えていない。女性は女性でなくて何になるの?。それに私は「70歳くらいになったら女優になろう」とも考えている。

自然に齢を重ねることを素直に受け入れるが、「節目」とはいかにも整然とし過ぎているし、人生に「折り返し点」はないし、「第2」「第3」の人生とはいかにも実質本位な感じがする。どれも私にはしっくり来ない。ましてや「シルバー」なんて呼ばれたくない。

勝手の兄は幼少の頃、ヴァイオリンを習っていたそうだ。最初の先生が大変美しい先生だったので、幼いながらも練習に熱が入った。発表会では蝶ネクタイとヴァイオリンにのどを圧迫されながら「勝手の少年」は熱演した。ところがその先生が突然渡欧してしまい、2人目の先生に変わった。とたんにやる気がなくなりヴァイオリンをやめた。半世紀も前のことだ。

「3人目の先生は私よ」と言うと「それはいいけど、雑音でない音を出すのに10年はかかりそうだ」と言う。「10年はかかる」。これは多くの人が捕われる考えなので、責められることではない。むしろ、いとおしくさえ感じる。

私は12歳でヴァイオリンを始めて6年後に音楽学部に入学した。ベートーベンやメンデルスゾーンなどの協奏曲も弾き、オーケストラや室内合奏なども学んでいた。それにも増して、大学卒業後10年の実践は例えようもなく貴重なものだった。が、大きな悔いを今でも心の奥底から取り除くことが出来ない。

というのは「ヴァイオリンを始めたのが遅かったから……」と自らを縛っていたのは誰でもない「愚かな私自身」だったのだから!。もしも、私の心が「遅く始めた」という事実に必要以上にこだわらなければ、学んだことの2倍はジャンプ出来たかもしれない。

しかし、それは「かもしれない」である。素直にまっすぐ走って、高くて大きな壁にぶつかり、ジャンプして飛び越え、また走る。そんなことが果たして私にできたかどうか。やはりもう一度、夢の中で見たように、てくてくてくてくと同じように歩いていただけかもしれない。

そして、61歳の私を想像してみる。「かつて、ヴァイオリンを習っていた、習いたかった」という人たちにヴァイオリンを教えている。もちろん、お弟子さんの中に勝手の兄もいる。女優になるのは70歳だが「10年は修行しなければ」とは考えていない。70歳になったらただ実践するだけ。

通る道に植えられたハイビスカスの低い木々は、春夏秋冬、美しい花を開かせては結び、また咲かせる。太平洋の明るい光を抱いた3月の風が、素直な赤い花弁をぷるぷると震わせている。

夢ではなかった。てく、てく、てく…私は間違いなく時の中を歩いている。

(毎日新聞USA連載)


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