器の中に……

1989年にオアフ島ホノルルで夫と会社を設立した。ほぼ同時期にハワイ島コナでは音楽家ケン・ステイトンさんを中心に演奏団体を設立していた。メンバーは主にコーラスの人達だった。
90年代の半ばごろから「ヴァイオリンを弾きに来ない?」という誘いの電話がかかるようになった。器楽演奏家はハワイ島には数少ないので、オーケストラ奏者の多くはオアフ島から呼ばれて行くのだった。
私は誘いの電話がかかっても、ほかの島までヴァイオリンを持って泊りがけで行くのはおっくうな気がした。行きたくない理由はもう一つあった。シーズーの小犬をわが家に迎えたばかりだったので離れたくなかったのだ。「小犬がいるから……」と断わっていた。
電話は毎年かかり、3年目に「じゃあ、一度だけ」と誘いを受けた。ところが一度行ってみると、コナの人々の音楽への情熱が私の心にまっすぐに入ってきた。以来、コナに通い続けている。
今年も10月最後の週末3日間、コナへ行った。リハーサル2回と演奏会2回があった。
山の上にある演奏会場と滞在した家の間を、コナのメンバーの人達が何度も送り迎えしてくれた。曲がりくねった細い道はどこもきれいに舗装されている。ガードレールのない道を、車はスピードを出してくねくねと走っていった。
「何もない」「もし、そこに人がいなければ何もない」と思った。
何もないわけではない。確かにそこには豊かな緑の木々があり、花々があり、小鳥がさえずっている。自然への感謝を思い起こさせてくれる。遠く眼下には静かな海が広がり、海岸沿いには観光客で賑わうひと塊の町が見える。
何か一つのこと、例えば音楽のために、70年前に建てられた劇場に人々が集う。
もしそこに人々の「思い」がなければ、古ぼけた劇場とカフェや小さなギャラリーがくねくねと曲がったところに現われ、数十秒後には過ぎ去った後ろの景色になっているだけのことかもしれない。さして特別な感慨もないままに。
だが、何もないのではないのだ!。彼らはネットワークを張っている。目的のため、必要な時に必要な人が集まりネットワークは広がっている。心の内側から「豊かさ」を作っているのだ。
「音響のよい心地よい楽屋のあるコンサートホールがあれば……」と夢見ることだろう。そんな計画があることは2年前に聞いた。ある夫婦は、コンサートホール建設用の広大な土地を寄付し、ある人はお金を寄付している。知り合いの若いスティーブは、おばあさんから受け継いだ遺産を寄付した。
こうして用意された土地に、いつ立派なコンサートホールが建つのか私は知らない。まだ建ってはいないのだが、そこにはすでにはっきりと「姿」が出来ている。ホールは建てればよいというものではない。そこにどんな人々が集い、どんな志で、どんなことをするかが大切なのだ。
……カメハメハ王朝直系最後の王女パウアヒが、120年近く前にお墓という建物に入るまでの人生は、大きな志に満ちたものだったという。それはパウアヒの生まれもった資質とともに、ニューヨークから来たチャールズ・ビショップとの結婚生活の象徴でもあったようだ。
王族であり、またキリスト教徒でもあったパウアヒは、ハワイアン子弟の教育に自らの能力を注いだ。読み書きやピアノを教え演奏会をした。受け継がれた莫大な遺産を自分だけの甘美な生活のために使う人生ではなかった。彼女は魅力的で人々に愛された。
パウアヒの両親がかつて娘の結婚相手にと望んだカメハメハ5世は生涯独身を通し、死を目前の床にパウアヒを呼び「後継者に」と懇願したのだった。しかし、パウアヒは「いいえ、いいえ私じゃないわ!」と答えた。そう、言い伝えられている。
10月16日にパウアヒは死んだ。別れを告げに訪れる人々の列は絶えなかった。ホノルルの空は重たい雲に覆われ悲しみの雨が降り続いていた。が、葬儀最後の日、10月30日に突然、空が天高く青く澄み渡り太陽が輝いた。晴れやかな希望とともにパウアヒは愛する人々に無言の別れを告げて逝ったのかもしれない。
パウアヒの莫大な遺産で、夫チャールズは財団を設立した。今、ハワイアン子弟の教育に生かされている。さまざまな人々との間にネットワークを張り愛され続けたパウアヒもまた熱い血を持っていた。それは夫チャールズとの偉業でもあった。
私が会ったことのない人々からも「志」は熱く伝わってくる。そんな人々の志に引き寄せられるように、のろのろと這うように、私もまた燃え続けているのに気がつく。
そう、器ではない、志だ、と、10月31日、私たち夫婦も晴れやかな思いで、13年間いた事務所を移転した。
(毎日新聞USA連載)
