Violin弾きのお美っちゃん~14

ビールが不味かった……

小学生の時のある日の午後だった。私は事務室の人に頼まれて音楽室に先生を呼びに行った。音楽室のドアをあけると2人の先生がタンゴのレコードを聴いていた。机の上の白い紙には赤い山桃がのせられていた。先生は私を見ると「こっちに来なさい」と手招きをして仲間に入れてくれた。

タンゴは、いつもの音楽の時間に聴くクラシックのレコードとは全然ちがっていた。私は特別に大人の世界に招待されたような気分だった。そして、タンゴを聴きながら山桃を食べた。

やはり小学生のある日、いつもの学校からの帰り道を友だちとゆっくりと歩いていた。途中、塀からイチジクの枝が外にせりだしている家があった。その実は日に日に熟していくのが私は気になっていた。口の中でイチジクの味を想像してみた。

私は、いよいよ熟したそのイチジクを味見しなくてはならない気持ちになっていた。ついにその家の人に無断で一つもいだ。茎から濃いミルクのような汁が流れ出た。割って友だちと半分づつ分けて、それを道で食べた。ふわりとやさしい味だった。

スリル感とともに食べ物を口にするのは、恋をした時のトキメキのようなもの。そして、慣れ親しんだ味というものは、程よく着慣れたコットンのパジャマのようなものだ。

ハワイに来てから、ある日、スーパーマーケットのお惣菜売り場でゆでた枝豆のパックをじっと見つめているアメリカ人を見かけた。たぶん米大陸の本土からハワイに観光に来たと思われる男性だった。その人は枝豆を見るのが初めてだったのだろう……恐らくそうだ、と私は直感した。

私はといえば夕食のおかずを買うつもりだった。きょうは何を食べたいか、並べられたお惣菜を見つめながら考えていた。もう1人は、私の隣で枝豆をじっと見つめている。…………と、

「この豆は皮も食べるのか」
「皮は固いか」
「塩味か何か味がついるのか」
「茹でてあるのか」
「おいしいか」

彼は矢継ぎ早に私に問いかけてきた。皮つき枝豆と並んで、皮なしの枝豆パックもあった。「皮の中味はこれか」とも聞かれた。私はいろいろ教えてあげてから、「おいしいよ。私、いつも食べてるんだから!」と言いながら枝豆パックをひとつ取り、勢いよく買い物かごに放りこんでその場を離れた。

その日は枝豆を食べたい気分じゃなかったのだが、たかが枝豆であれほど悩むとは辛気くさいアメリカ人もいるものだと勢いを見せたつもりだった。そして少し離れた別の売り場まで来てから、さりげなく振り返った。すると、まだいる。枝豆パックの前に立って、枝豆をじっと見つめていた。

彼は、かつてこれまでの人生で食べたことのない食べ物を口の中で想像し、味わっているのが私にははっきりと分かった。今まさに冒険するか否か、自分の勇気を試しているのだった……。

心の手はすでに枝豆に伸びているのに、慎重な彼は手を伸ばすことが出来ない。そんなふうに決断できない彼を痛ましくさえ感じながら、私はもう振り返らなかった。

…………「ビールに枝豆」は、懐かしの日本の夏だ。ハワイでもスーパーマーケットにいろいろなブランドの冷凍パックの枝豆が並んでいる。よく売れているところを見ると、ハワイ在住の日本人や日系人は家庭で「ビールに枝豆」をしているのかもしれない。

ヴァイオリン弾きの私は、かつて、「風邪ひきの名人」だった。ある年にひいた風邪がなかなか治らなかった。咳が痙攣するように連続的に小刻みに出て苦しく、薬を飲んでもまだ症状があった。

そこで、薬が効かないのならと、治療のつもりで冷たいビールを一口飲んだ。そのビールは、それまで味わってきたビールの味とは全く違い、なぜか「紙のような味気なさ」だった。私は怖くなりすぐに捨てた。

翌日かかりつけのお医者さんに走り「ビールが不味くなったんです!」と告げると、医師は厳しい顔つきで「死にますよ」と言ったのだった。

そんなことがあって以来、どんなに暑い日でもビールを飲まなくなったが、枝豆だけはせっせと食べ続けている。そして、今、「枝豆にビールは?」という、味覚の誘惑にジャンプしようかと思い始めている。

さて、私とは違い、「未知」への誘惑に戸惑っていたあの辛気くさいアメリカ人はどうしたのだろうか。どうでもいいことなのだが、記憶のどこかに引っかかっている。

(毎日新聞USA連載)


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