祖父の葬式は無事すみました。通夜、葬式に600人もの人が出席してくれ、いかに祖父が様々な人に好かれていたかを改めて感じました。
祖父は、人をわけへだてなく可愛がる人で、特に、子供には優しく、皆に、じいちゃんと言われ、慕われていました。いつも車には、子供と出会った時にあげるためのお菓子、(主に飴ですね)小銭(和歌山では賃(チン)といいます。)を乗せていたのを、今でも思い出します。
じいちゃんは、つらい入院生活を本当によく頑張ったと思います。本当にあっぱれな生き様でした。ラストサムライという映画を見た時、日本には侍はほとんどいないと思いましたが、こんな身近に侍がいました。
夏に、和歌山医大でいろんなことを話しました。それでも、もっといろんなことを話しておけば良かったとか、死に際に、じいちゃんのそばにいてあげられれば良かったなぁとか考えます。
じいちゃんは、いつも私のことを宝物であると誇らしげに、誰彼かまわず言ってくれました。私は、じいちゃんにとって、本当にいい孫やったんかなと思うことがありますが、やはり主任者試験を合格したことを伝えることができて本当に良かったと思います。
じいちゃんは、十月末の試験結果を、ずっと気にしていて、楽しみにしてくれていました。父親は、不合格でも合格と言えといってましたが、本当に合格できて、文部科学省の合格通知書を送ることができたのは、我ながら最後のじいちゃん孝行だと思います。
今思うと、本当に努力してよかった。私は、もし不合格であったなら、いつまでもこのことを後悔しなければなりません。主任者合格というのは、次の医学部再受験という目標があったからなしえたものだと思いますし、何者かが、まさにその道にいかそうとしていると信じます。
合格を電話で知らせた、あの日、じいちゃんは電話で、「さすが、じいちゃんの孫やね~。」と言ってくれました。これからも、じいちゃんの孫として頑張らねば。
幼い頃、じいちゃんには、毎日のように磯遊び、海水浴や川遊びに連れて行ってもらったり、夜になると、昔話や本を読んだりと、私が喜ぶことをいつもしてくれました。
私と妹にはお気に入りの物語があり、私は、「夜行のたま」という物語、妹は「マンゴーの実と猿の王様」という物語でした。いつものその物語を読んでもらいました。
新宮では、通夜の前に火葬を済ませてしまうので、通夜の前の晩、私と妹は、じいちゃんの周りにおいてある屏風やお供え物、すべてどけて、冷たくなったじいちゃんの横に布団を二枚敷いて寝ました。
妹は、自分のお気に入りの本をじいちゃんに読み聞かせ、私は葬式でじいちゃんに送る弔辞を考えました。じいちゃんの死に顔は本当に眠ってるかのような顔をしていて、本当に三人で一緒に寝ているようでした。
じいちゃんは、どんなことも乗り越えてきた人でした。
葬式で親戚の人に聞いた話では、今のガス屋を始める前に、かつお節、花鰹を売り歩いて、毎日20キロほどの舗装されていない道をリアカーをひいていたそうです。喉がかわいて、サイダー一本飲みたいと思っても、自分の子供の顔が浮かんで、山水を飲んで我慢したそうです。そんなじいちゃんだからこそ、中学生時代から丁稚奉公に出て、戦争に行き、シベリアで抑留され、漁師をし、花鰹、ガス屋と、乗り越えてこれたのだと思います。
決めたことは、絶対にやり通す意志の強さ、私を包み込む優しさ、私にとって、じいちゃんの存在というのはあまりにも大きなものでした。じいちゃんの孫であるということを、本当に心から誇りに思います。これからより一層、自分の歩むべき道に向け努力していきたいと思います。じいちゃんは、天国に行っても私を見守り続けていると思います。
私には、医学を目指すあたって、少し欠いているものがありました。
何というか野心はあったんです。例えば、技師では終われないとか、もっと上を目指したいとか。もちろん人助けをしたいという気持ちもあります。
しかし、大きな決め手となる、これというもの、医学部に入るのは何のためというものがありませんでした。それは主任者試験を合格して再受験の切符を手に入れた時にも変わりませんでした。
しかし、じいちゃんが死んだことで、私はそれを手に入れることができました。これは、じいちゃんから私への、最後の贈り物だったのかもしれません。
(1)
じいちゃんは死んだ後に渡すようにと、竹の貯金箱に500円や100円のお金をいっぱい貯め、ばあちゃんに託してくれました。その小銭は、私が2歳の頃から少しずつ貯められていて、本当にじいちゃんらしい、心にくる贈り物でした。
(2)
和歌山に帰った晩、念仏が行われ、そのあと、集まった人達で少し飲んだりして、じいちゃんの周りをにぎやかにしました。そして、ある話を聞きました。その時は、へぇ~、と思うだけだったのですが、通夜のまっ最中、その話が、私の心に浮かんできました。
じいちゃんは、本当は死ぬ前に家に帰ることができたのです。じいちゃんは、長い入院生活で家に帰りたいといつも考えていました。そして外出許可もとれていました。しかし、医者の手違いということで、許可の取れた日より4日間伸びてしまいました。そして、その4日目を迎えることなく死んでしまいました。
また、容態が変わった時、母親が看護婦さんに連絡すると、医者は今近くにいないということで連絡しただけでした。ときどき来てもらっていたこともあってか、医者はいつもあることだからと、来てくれませんでした。そして死んだこと聞いて、慌てて駆けつけてきました。本当は近くにいたそうです。
この病院は、この地方では一番大きな病院ですが、医者は、そんな態度なばかりか、看護婦も医者に遠慮して、あまり緊急で何回も呼ぶようなことができないようです。
またこんな話も聞きました。じいちゃんは、気に入らないことをはっきり言う人ではありませんでしたが、親父が、いつも医療従事者にダメなところはダメと言っていました。
実際に、いろんな不満を持っているにもかかわらずそれを言うことができなくて、さらにしょい込んで苦しんでいる人達が多くいるそうです。特にお年寄りの多い私の町では、そのような苦しみを抱えている人が多いようです。
患者が主張しないのが悪いとは決して思いません。そのようなことを理解しようとする、また、何でも言えるような環境作りをする、その努力が必要なのだと思いました。
私は、地域医療をするために医者になるのだと、心から思わせてもらいました。
今考えると、受験時代、一回も志望学科として書いたことのない放射線学科にいるのも、このような道を歩むための道順だったのかもしれません。地域医療、チーム医療のスペシャリスト鷹野先生に出会ったのもやはり、何か見えないものがそうさせたと信じてやみません。
私は、患者のことを本当に親身になって取り組むことのできる体制作りをすべく、医学部を目指すことを心に誓いました。私に足りなかったもの、じいちゃんが命を持って与えてくれました。
濱口仲三、本当に偉大な人です。
2004年 11月 13日 土曜日
ときどき思考はいろんなところに飛んでいく。
病院で働いているみんなは、こうあるべきという考えと、現実とのギャップの中、試行錯誤して頑張っている。実際に理想の医療を実現することは非常に難しい。モチベーションが高くてもどうにもならない現実がある。
病院も慈善事業じゃない。利益との兼ね合いが大事だ。患者さんを思えば、医療従事者が負担を強いられることになり、それが医療ミスへとつながっていく。耐え難いジレンマの中で、知らぬうちに、こうあるできではいという先輩の姿に染まっていってしまう 人、必死に頑張っている人・・・。
俺は、そんな病院のシステムを根本から変えられる医者になりたい。どのようにすれば解決できるのかはっきした術はわからない。でも俺は、頑張っている友達をみて、頑張っている人が報われるようなそんな病院を作りたい。
俺の地元は、かなりの田舎だ。最近では、病院もさまざまなところで評価され、患者さんに選ばれる時代であると言われているが果たしてそうだろうか。俺の地元のような田舎では、病院を選ぶ余地はない。大きな病院は限られる。患者は、そこに見放されたら終わりだ。当然、医者に対して下手に出る傾向が、他の地域より 強い。地元の医者はそれに対し、より傲慢になっていく。なんて悔しいことか。地域で、ただでさえ高度な医療が受けられない状態にあるのに、患者に対して優し くない医療を強いられるなんて。
俺は、患者に必要とされる医者になりたい。地元の医療を変えたい。絶対に医者になる。絶対に。
追伸:
いい病院を作るとき、病院で利益を上げることを前提とするのがそもそもの間違いだと考える。ハワイ州にあるクイーンズホスピタルは、不動産やその他の多角経営で、病院の赤字を覚悟した上でその分を他でプラマイゼロにしている。日本でも法律的には多角経営は認可されているはず。いかに実践している のだろうか!? 俺は自分に求める理想の医者像(病院像)は、優しく、かつ稼ぐ能力のある医者(病院)だ。
小説の中の探偵が言ってた(はず)だが、この世の中、 優しくなければ生きる資格がない、また、強くなければ生きていけない。まさにこれだ、患者、患者といっても、患者さんに対し、いい医療を展開できても、自分のス タッフを守っていくシステムがなければ、きれいことで終わってしまう。