2001年 晩夏の情景

 
ホスピス見学のこと
 
九月四日

 ホスピスの見学に行った。ホスピスの中に入って案内してくれる人を待っている時、ホスピスの中の静けさと、ここには死を宣告された人が生活していることが、僕を緊張させた。

 いすに座った時、壁に金属で表現された木のようなものが目に入った。木の幹には、キリストがいて、その葉っぱ一枚一枚には、人の名前が書かれていて、さらに日付の書かれているものもあった。それは、このホスピスで亡くなった人達であることは簡単に想像できた。

 しばらくすると、かなりぽっちゃりした女性と体格のいい男性が来て、僕等は自己紹介した。その後、女性の方が僕等を案内してくれた。

 やっぱり葉っぱは死んだ人の名前だったが、お金がいるらしかった。

 その後、待合室のような所から廊下を通って、患者さんがご飯を食べるのに使うという部屋に入った。その時、ちょうど小柄なおばあさんが出て来るところだった。そのおばあさんは、女の人に軽く会釈して部屋を出ていった。会釈した時の笑顔が、僕には悲しそうな顔に見えた。胸の内に、大きな悲しみ、不安をいっぱい抱えているような気がした。

 廊下の壁には他の病院と同じく多くの絵が掛けられていた。その絵の多くが、キリストや聖母マリアの絵であったことが、ホスピスにいるんだなと再認識させた。その部屋の横には、大きなキッチンのような所があり、朝食だけはここで作ってくれるらしかった。

 その近くに教会のような部屋があった。デニースが、その部屋の扉を開けようとすると、さっきのおばあさんが教会の部屋の隅で祈っていた。女の人があわてて閉じるように促すとデニースがすばやく扉を閉じた。ドアのガラス越しに祈りを捧げる小さなおばあさんの背中は何ともいえなかった。

 ホスピスは、心地良く死を迎え入れることができるか? 

 僕は本当に全ての人がみんな望んでここに来ているのかなと思った。

 男の人が問いかけて来た、「君達はいったいどのような死を望むか。 また、どこで死にたいのか?」、僕は何も答えることができなかった。 英語でしゃべらなければならないとか、そういったことじゃなく、とにかくわからなかった。 ふと、「頭に畳の上で?」 とよぎったが、「ほんまにそうなんか? お前は!」 と思った。 その男は、次々に日本とアメリカの医療の違いを指摘して、ホスピスはもちろん医療全体のことを熱く語ってくれた。
 
 

ダイアナさんのこと

八月◯◯日
 
 ホスピスで勤めていたことのあるダイアナさんが、僕達に話を聞かしてくれるためにコンドに来てくれた。 きれいなムームーを着た大きな女性だった。 ダイアナさんは、ホスピスはすごくやりがいのある仕事で良かったけれど、たいへんなので三年でやめたらしい。 ホスピスの仕事はとても悲しいとも言っていた。 他にもダイアナさんの半生を聞いた。 恋の話やいろいろな話をしてくれて、すごくおもしろかった。 ダイアナさんに、三人がセルフポートレイトを読んで聞かせると、親のような人間になりなさいと言った。 また、親が死んでしまった後で親孝行はできないので、今、親孝行をしなさいといったことが印象的だった。
 
 
 
シュライナー子供病院のこと

 今日、典さんとよっちゃんと美智子さんとシュライナー子供病院に見学に行った。 病院に入ると噴水があり、その前で大きな女の人が二人満面の笑みで迎えてくれた。 その二人は、僕達を案内してくれるアンとコリーンだった。 気前よくコーヒーをおごってもらい、そのコーヒーを持って会議室のようなところで この病院についてのビデオを見た。 ビデオの英語はよくわからなかったけれど、なんとなく言いたいことはわかった気がした。 その後、二人から説明を受け、話しを聞いた。 聞いていくうちに、この病院がすごい病院であることがわかった。 シュライナー子供病院では、22才までの人が無料で治療を受けることができるということ。 では、治療のための資金はどこからきているのか。 このシステムがまたすごい。 寄付によって集めた800万ドルを銀行に預けることで利子である1ビリオンを資金にあてるという壮大なシステムだ。 また、この病院には子供に付き添う両親のためのアパート、入院している子供のための学校があること。 すべては患者のことを考えて作られていることがわかった。

 僕が、「映画、パッチ・アダムスのハンター・アダムスによく似た考え方ですね」 と言うと、「はい、同じです。」 と答えた。 僕はパッチの映画を見て以来、パッチの考え方に大きな影響を受けていたので、そんな考えのもとで治療を行っている病院に来られたことにとても感動した。
 
 会議室を出ると、一人のおじいさんが外に置かれたテーブルでブランチを食べていました。 ~~~~いざ見学してみると、いたる壁にクリスチャン・ラッセンのきれいな絵が何枚と掛かり、その他の芸術品が飾られてあった。 その中の一つに、日本人が寄付した金糸の着物があり、その着物には子供達が触れるようにとガラスケースに入れられてなかったのが印象的だった。
 
 芸術品に混じって、患者の子供達の書いた絵が多く飾られていた。 子供達にとっては、どんな美しい絵が飾られるより嬉しいことだろうなと思った。 また、退院した子供達から病院への感謝状が貼られていた。 中にはつたない文字で一行だけ、「なおしてくれてありがとう」 という手紙もあった。 たった一行の手紙だげど、すごく重い手紙だと思った。 医療従事者は、この一行があるから頑張れるんだなぁと思った。
 
 はじめに備え付けのおもちゃや人形がいっぱい置いてある待合室を通って、レコードがたくさん置いてある部屋に入った。 少しあたりを見ていると上品そうな日本人のおばあちゃんがやってきて僕達にいろいろ話してくれた。 この病院では可動式の本棚にレコードがたくさん入っていてスペースをうまく使っていた。 日本は、ただでさえ地価が高く、狭いのだからこういったものを使う必要があると思った。
 
 次に放射線技師のいる所に行った。 部屋の中に入ると筋肉の鎧をまとった、でかい男が椅子に腰掛けていた。 それは放射線技師のキースだった。 どうやら僕は、キースという名前に縁があるらしい。 アンが僕達の説明をした後、キースと握手した。 キースの手はでかくて力強かった。 またキースはすごく陽気だった。 日本では、どちらかというとせかせかした感じで、おおげさにいうと神経質で余裕のない顔をしているのに、この病院の人は、みんなとにかく明るい。
 
 日本では病院は暗くて汚いというイメージが強い、でも、本当は壁に絵がかかっているとかかかっていないとか、電気の明るさというのが問題ではなく、医療スタッフそのものの明るさが、病院の明るさに直結してくるんだなぁと思った。
 
 キースは放射線に関わるいろいろな所を見せてくれた。 そのどの部屋にも、人形やおもちゃが一杯おいてあった。 一杯って、どれだけかわかりますか? おもちゃを置くためのでっかい棚があって、多い部屋には二つ、もしくは、三つあるんですよねぇ~ ひとつの部屋に。 私は今まで子供専門の病院にはかかったことはないけれど、それでも、おもちゃの一つでも置いてあるレントゲン室に出くわしたことはなかった。 日本のレントゲン室は、部屋の真ん中にでっかい機械が置いてあるだけで、まったく人間味がない。
 
 私が学校の授業で放射線技師の患者との関わりについて質問した時、返ってきた答えは、放射線技師のところに来る患者は、けがや病気で神経質になっている場合が多いので、X線写真撮影やMRIなどの大きな機械を前にして、患者がいかに不安にならないようにしてあげるか、といったことだった。 その時は、なるほどと納得しましたが、今思えば、なぜ一つの部屋の真ん中に馬鹿でかい機械のみがあるという、いかにも患者を不安にしてしまう状況そのものを改善しないのかと思う。
 
 シュライナー病院では子供のためにおもちゃを置いているけれど、おもちゃで遊ばない年の人でも、おもちゃの置いてある、その空間は落ち着くと思う。僕自身、ほのぼのした暖かみのあるレントゲン室だと思った。
 
 キースは、赤ちゃんや小さい子供の場合のレントゲン撮影の仕方を自慢げに教えてくれた。 キースが音を鳴らすおもちゃを持ち、自分の後ろに隠しておき、いきなり鳴らすファンファンとね。 すると子供の注意はそっちにそれて、一時的に動きが止まる、それがチャンスってわけ。 なるほどって思って、キースはすごいなーって思った。 でもキースは、その子達と一緒に被曝してしまう。キースは真の放射線技師だ。
 
 さらにキースは、片足だけ短い人や背骨が蛇行している人のこれからの治療計画を教えてくれた。 この病院では放射線技師は写真を撮った後も、治療の計画にたずさわることができるのかと羨ましかった。
 
 日本では、ただ単に撮るだけのケースが多いので、はっきり言って、あまりやりがいが見い出せないと思う。 最後にキースに3枚のワッペンを貰った。 そのワッペンは放射線技師のワッペンで、一番大きくて格好いい奴には、" THE AMERICAN SOCIETY OF RADIOLOGIC TECHNOLOGISTS "  と書いてあった。 いつかこのワッペンを白衣に付けて、キースに会いに行けたら、いや会いに行く。 でも、この意味は、アメリカでずっと働きたいという意味じゃない。
 
 確かに、こんな病院でずっと働けたらどんなにいいことだろう。 でも、それじゃあ、何も変わらない。 今、日本には、病院を変えるために努力している人がたくさんいる。 自分も、そんな人になりたい。 だからアメリカへ技術を学ぶために行きたいけれど、その技術を持って日本に帰り、それをさらに発展させて患者の為に役立てたい。 今はまだ、こんな立派なことを言えるような立場にないけれど絶対なってやる。 これはこのことを忘れないように、現在の自分、そして、未来の自分への誓いの言葉。こうしてキースのもとを後にした。
 
 それからリハビリ室に行った。 そこには、PT.OTがいた。 これまたいい人ばかりで、典さんにいろいろな説明をしていた人は自分の知っている日本語の知識をフルに使って説明しようとしていた。 日本語はあまり言えていなかったけれど、人の良さが伝わってきた。
 
 その後、実際に入院している子供達の所へいった。 小さい男の子が車の乗り物に乗って、大きな男の子が押して遊んでいたり、ギターを弾いたりしていた。病院らしくない病院だなぁと思った。
 
 次に、レクレーションルームと学校に行った。学校にはたくさんコンピュータがあって下手な学校より設備が良かった。また花壇には子供達が花をたくさん植えていた。
 
 次に、最近できたばかりの新しい建物に行った。 そこにはまるまると肥えたおっちゃんがいて僕等を迎えてくれた。そのおっちゃんは、エルトンという人で、この建物で、ギブスや身体の装具を作ったり特別な靴を作ったりしている人だった。 だからエルトンは、奥さんより裁縫がうまいといって笑っていた。
 
 その建物には、いろいろなものがあったけれど、一番印象的だったのは、机の上に置かれていた、ものすごい大きな靴だった。 30センチをゆうに超す大きな靴は、小さな女の子のものだとエルトンは言う。 僕は、そんな大きな足の小さな女の子はこの先どうなってしまうのだろうと悲しくなった。 でも、エルトンは、この女の子は、この間、結婚したよといった。 だから幸せになれて良かったなと思った。 でも、足が大きいから幸せになれないんじゃないかと思ったことが、健常者のうぬぼれだったなぁと、今、思う。
 
 その建物を後にする時、よっちゃんが、「あなたはこの仕事が好きですか?」 と聞くと○◯と答えた。 エルトンは心からこの仕事をしている。 僕も何年かして就職したら、そんなふうでありたい。そんなこんなで案内してくれた二人にお礼をいってシュライナーを後にした。
 
 
 
見えない力を感じる時・・・小さな冒険のこと
 
 九月八日の夜、セーフウェイにジャムを買いに中村夫妻に連れて行ってもらった。 その途中、前から気になっていたトムとシンディ、そして、デニースの話になった。 のりさんからいろいろな話を聞いた中で、トムが日本の若者はどいう考え方をしていて、死後についてはどういう考え方を持っているのか、ということ言っていたらしく、僕は宗教に興味があったのでぜひ話してみたかった。
 
 時間的に無理でも、メールのやりとりを可能にするため、一度、会っておきたかった。 結局、明日のりさんとお礼と礼拝に参加するという形でシンディーを訪ねることにした。 僕達はコンドミニアムに戻ってさっそく計画を練り始めた。 シンディーの家は、カリヒバレーというところにあって、ワイキキからは2番のバスに乗って、ビショップミュージアムまで行って、歩くか、7番のバスを捕まえるか、いったんダウンタウンに行って、キングストリートに出て、カリヒを目指し、7番でカリヒバレーに向かうかという選択肢が考えられた。 カリヒは、観光名所ではないため、ガイドブックに細かく載っていない。 そこで、どちらで行くかはバスの中で聞こうということになった。 明日は、最後の冒険に出発だ。明日もおもしろいことになりそうだぜ。
 
 九月九日、今日の目的地カリヒバレー、シンディー家。朝、腕時計の小さなアラーム音で奇蹟的に目覚めた。時刻は六時、予定通り、七時にコンドを出た。 今日は、礼拝が始まるであろう九時までに着こうという目標があった。
 
 ダイエーに寄って、色違いのかわいらしい花を二つ買った。さすがに朝早いのでスムーズに買うことができたた。 いざバス停へ! 最寄りのバス停に行くとおばあちゃんやおばさんがベンチに腰掛けていた。 僕はカリヒバレーに行きたいんだけど、どう行けばいいですかと尋ねた。 僕の持っていた地図とのりさんの持っていたトムの名刺も出して聞いた。 するとおばさんは流暢な日本語で、今から来るバスに乗って、バスが左におれたらスーパーの近くのバス停で降りて、一番のバスに乗ればキングストリートとカリヒが交差しているところへ行けることを言った。
 
 話を聞き終えると、すぐにバスがやって来た、バスに乗るとおばさんは後ろの方の座席に座り、僕達は前の方に座った。 バスは少し走ってバス停に止まり、そしてまた走り出した。 僕はもう一度確認しようと後ろをふりかえっておばさん探したけど見つけることができなかった。 そして例のバス停で降りた。
 
 のりさんが本当にここでいいのかと言っていると、一人のおじいさんがこっちに歩いてきた。 おじいさんに一番のバスに乗るにはここで待てばいいのかと聞くと、おじいさんは、ナンバーワンはここだと答えたので安心した。 それからすぐにバスがやってきて、それに乗ってカリヒストリートに行き着いた。
 
 カリヒストリートを山の方にずうーっと上って行くと行けることが解っていたのでバス停を探すついでに歩いて行った。 細かい道は、のりさんの記憶だけが頼りだった。 しばらく歩くとバス停が見つかった。 だけど、僕等は待たなかった。「なぜ?」、特に理由なんてなかった。他に待っている人がいたし、ここは七番のバスしか通らないことを知っていた。 だけど、なんとなく歩いた。前の晩に中村さんにだいたいどれだけの距離か把握させてもらって、遠いことを知っているにもかかわらずひたすら歩いた。
 
 汗でべたべたになった。レモネードの空きペットボトルに入れた水だけが頼りだった。 ずっと歩いているのにバスは一台も通らなかった。 ほんとにこの計画が昼じゃなくて朝でよかったと思った。
 
 くねった道を歩いて行くと×印が見えてきた×印はシンディの家の目印だ。 やっとたどり着いた。 ほっとして写真を撮っていると横をバスがいそいそと通り過ぎて行った。
 
 家に近づいて行くとのりさんがデニースを見つけた。 デニースはこっちには気付いていないようだった。 車にはエンジンがかかっていて、今にもどこかに行くという感じだった。
 
 さらに近づくと、デニースがのりさんに気付いた。 近くにはシンディーもいた。 挨拶をして、僕は自己紹介をした。 二人は今から教会に行くところだったので、僕達も連れて行ってもらえることになった。 車の中で、僕がなぜ来たのか等を伝えた。 でも、とにかく会えたということがうれしかった。 教会に着いて話を聞いて、歌を聞いた。
 
 話の内容も辞書を引きながら聞いたので何となくわかった。 その後、シンディーの家に行って、話したり、デニースの特別なシャワーを浴びたりして過ごした。
 
 その話の中で、今日はデニースが寝坊したと言っていた。 僕等はデニースの寝坊に助けられた。 もし・・なら、もし・・なら、会うことができなかった。 そして、デニースに送ってもらい、シンディーの家を後にした.。 コンドミニアムに戻った僕等は、まだやらなければならないジャーナルがいっぱいあるのに、心爽やかにワイキキのショッピング街にくりだした。
 

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